社会で生きるって、見られることと隣り合わせ
朝の通勤電車、吊革を握りながらぼんやりドアに映る自分の姿を見てると、ふと思う。
私、こんなにも見られてるんだろうか。
スーツを着て、ヒールを履いて、肌にぴたっと密着するベージュのストッキング。 見られたくて履いてるわけじゃない。 でも、見られている気がして、落ち着かない朝。
視線を感じながら、それでも堂々としていたいと思う私は、どこかで“戦ってる”のかもしれない。
朝の通勤、誰の視線かはわからないけど
朝の地下鉄、ギリギリ間に合った一本。
吊革を握る左手が震えてるのは、寝不足のせいじゃなくて…視線のせいかもしれない。
スカートのすそから覗く、ベージュのストッキング。 誰も見てないって思いながらも、どこか落ち着かない。
ドアに映る自分の足元をチラッと見て、ふと周囲の男性たちの目線を感じる瞬間がある。
直視されたわけじゃない。でもなんとなく、感じてしまう。
そしてたいてい、気のせいじゃない。
見られているのか、勝手に見てるだけなのか
見られてるって、自意識過剰なのかもしれない。
でも、女の勘って当たるんだよね。
朝の駅のホームや、社内のエレベーター。 斜め後ろからの気配、すれ違いざまの微妙な間合い。 なんとなく、ストッキングを履いている日のほうが、視線を感じることが多い。
でも不思議なのは、その視線が不快とも嬉しいとも言えないこと。
正直、ちょっとだけ誇らしい気持ちもある。
でもそれと同時に、すごく恥ずかしい。
見られてるかもしれないという自意識の中で、今日も私は働く。
ストッキングを履く理由は、見せるためじゃない
男性からしたら、ストッキングって何か特別なものに見えるのかもしれない。
でも、私たち女性にとっては、もっと現実的なものだったりする。
脚をきれいに見せるため。
ムダ毛や肌荒れを隠すため。 パンプスと擦れて靴擦れしないようにするため。 そして、スーツにストッキングが“マナー”として組み込まれているから。
自分が選んで履いてるようで、実は選ばされている部分もある。 それが社会人としての“常識”だから。
でもその中で、少しだけ“自分らしさ”や“美しさ”を感じたくて、肌色のトーンや質感を選ぶ。 お気に入りの一足が伝線した朝は、ちょっとテンションが下がる。 そんなふうにして、私は今日もストッキングを履く。
フェチの視線と、私の中の矛盾
Yahoo!知恵袋で読んだ投稿に、こんなものがあった。
ストッキング履いてたら、男友達に足に目がいってしまうって言われた
…やっぱり見てるんだなって思った。
しかも中には、顔より先に足見ちゃうっていう人もいるらしい。
ストッキングって、ただの消耗品じゃないんだって、他人の視線が教えてくる。
でもだからといって、私はストッキングを“見せるため”に履いてるわけじゃない。
汗をかいて蒸れても、足がむくんでも、それでも履く。
それは仕事着の一部であり、気持ちを引き締める装備でもある。
だから正直、視線が気になる。 見られることで、私が“選んで履いた”ストッキングの意味が変わるような気がして。 そんな矛盾と毎日向き合っている。
見られることに慣れたら、ちょっと強くなれる気がした
スーツを着て、ヒールを履いて、ストッキングを通して社会と向き合う。
見られることに慣れていくうちに、私はだんだん強くなってきた気がする。
視線に気づいても、動じなくなってきた。 それどころか、今日も戦ってるなって、自分に言い聞かせるように歩くようになった。
見られることは、消耗じゃなくて表現。 誇りじゃなくて、ただの“日常”になっていく。
でも本音を言えば——
そんなに見られてるって、わかってるからね?って、たまに思うこともある。
こんな感じが本音です。
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